フィロソフィア❶「ちつ」から「つち」へ。

 
 
 
 

 
《 フィロソフィア第一章 》
  1. 我々は「ちつ」から生まれて「つち」に還る
  2. 人間以外の、動物や植物に「死を嘆き悲しむ感性」があるのだろうか?
  3. 生と死が当たり前のように繰り返されるこの世界・・
  4. 死を敵化する。それこそが、「二元論」による洗脳なのではないかと思う。
  5. 死と救済の専売特許=宗教。
  6. 死を「生者」にとっての「最大の敵」に仕立て上げた・・
  7. 恐怖「心」から人間文明は作られてきたのだ。
  8. 心があるとすれば、それはどこに在るのか。
  9. お金は実態のない「幻」である。
  10. そもそも、お金と心は似ている。
  11. 心を賢く運用するには、哲学が必要である。
  12. 恐怖心とお金が結びつき欲望は無限にエスカレートする運命にある。
  13. 虚なる欲望が地球を蝕む
  14. 現実的には、軍の介入が考えられる。
  15. 殺人や暴力というカードは、未だに最強なのかもしれない。
  16. 何故、第3次世界大戦は起きてないのか?
  17. 世界は、暴力による支配が未だに続いている。
  18. すべての人が満たされていたら、戦い、競う必要はあるだろうか?
  19. リアル世界とバーチャル世界が見事に逆転する
  20. 人々の欲望はバーチャル世界で消費されるようになる
  21. 管理社会は本当に悪なのだろうか?
  22. まさに、映画マトリックスの様な世界の到来だ。
  23. 「覚醒」「目覚め」「悟り」とは単なる言葉遊びではないか?
  24. 現実を選択する未来がやって来る。
  25. バーチャル化の先に人類はどこへ向かうのか?
  26. 我々は「ちつ」から生まれて「つち」に還れるのか?

我々は「ちつ」から生まれて「つち」に還る

 
まるで「言葉遊び」のようだが、
これほどまでに上手くできた「言葉遊び」があるだろうか。
 
ちつとは勿論、女性の「膣」であり、つちは「土」である。
 
我々は、母の膣から「おぎゃあ!」と産声を上げ、この世に生誕し、
やがてはまた「母なる地球」へと還っていく。
 
 そして、母なる地球はまた新たな生命をこの地にもたらし、
生命の美しきサイクルは今日も明日も、延々と続いていく。
 
これぞ、美しいサイクル。美しい循環。
 
そう言っても良いかもしれない。
 
しかし、人間的な視点で世界を観察してみれば、
この世界はただ美しいだけの世界とは言えない。
 
むしろ、「残酷な世界」であると言った方がしっくりくる人もいると思う。
 
なぜ残酷なのかと言うと、それは、
「惨めな死」
があるせいだと感じる。
 
 

人間以外の、動物や植物に「死を嘆き悲しむ感性」があるのだろうか?

 
おそらくだが、人間ほどではない。
 
少なくとも、ネコが子ネコを殺されたからと言って、
地縛霊などになり、その犯人を恨むようになるなんて話は聞いたことがない。。
 
だから、人間が死に直面したときの、悲痛なエネルギーの撒き散らし方は
それこそ環境にとっての「破壊行為」であり、「公害」にすら近しいのではないだろうか。
 
もちろん、家族や親しい人の突然の死別は、
悲しく辛いことであるのは間違いない。
 
それにしても・・
 
 

生と死が当たり前のように繰り返されるこの世界・・

 
なぜ人はいまだに「死」に慣れないのだろうか?
 
なぜ未だに「死を受け入れられない」のだろうか?
 
半端に知能があるゆえに受け入れられないのか?
 
いや、本来ならば我々は、生と死の循環サイクルを
「美しき摂理」として受け入れられる可能性もあったはずだ。
 
誕生を祝い、死を祝う。
 
新たな旅立ちとして死を受け入れる発想は出来なかっただろうか?
 
明治維新以前の日本には、「美しく散る美学」があったのではないだろうか。
 
だが、それを邪魔したい勢力、もしくは思惑があったのではないだろうか?
 
 

死を敵化する。それこそが、「二元論」による洗脳なのではないかと思う。

 
善と悪。「良いと悪い」に分けることで、この世界は長らく運営されてきた。
 
誕生を祝い。死を嘆く。
 
生は良きこと。死は悪しきこと。このようにして。
 
だから、宗教は悪く言えば、人間の死への恐怖を増幅し、
その恐怖から逃れたい人間共をうまく支配することが出来たのだ。
 
たとえば、エジプトではミイラになるように。
時の権力者達は、死から逃れるために「永遠の命」を求めた。
 
死から逃れる為に、財をはたいて、あらゆる手を尽くしたのだ。
 
そして、そんな彼らの相談役となったのは当然、宗教家だろう。
 
つまり、「死後の世界」の権威となった宗教家達は、
時の権力者にマウンティングすることが出来たという訳だ。
 
 

死と救済の専売特許=宗教。

 
人間という動物は、もともと死を悲しんだのだろうか。
おそらく、ある程度は嘆き悲しんだように思う。
 
しかし、それは宗教以前の話しだ。
 
宗教による死の恐怖が発明されてから人は、
人類は、死というものを敵視し、対立し、悲痛なまでに恐れ、
公害レベルで嘆き悲しむようになったのだ。
 
そう考えてみると、
 
 

死を「生者」にとっての「最大の敵」に仕立て上げた・・

 
それが、宗教の一番の功績だったのかもしれない。
 
繰り返すが、そもそも「生と死に良いも悪いもない」。
 
少なくとも、人間以外の生命体は、それを平然と受け入れて生きているように見える。
 
だけど唯一、人間だけは、死というものを必要以上に恐怖しているようだ。
 
そして、この死への恐怖を操ることで、
あらゆる産業が成り立っているのではないかとすら思えてくる。
 
人間が恐怖から逃れる為に、
 
・保険があり
・病院があり
・年金があり
・宗教があり
・お葬式があり
・死後の世界がある
 
「新型コロナウィルス」も人々の恐怖を煽ることで、
見事に社会変革を達成している成功事例だ。
 
だから恐怖心によって社会は運営されていると言っても過言ではない。
 
どんなに言い逃れしようとも、人は恐怖から逃れ、快で満たす為に動く。
 
そして恐怖心は動物的な生存本能と結びつき、強烈なモチベーションとして
ここまで人間社会の発展を突き動かしてきたのだ。
 
だから・・
 
 

恐怖「心」から人間文明は作られてきたのだ。

 
人の心はとても神秘的であり、パワフルだと思う。
 
ちなみに、恐怖という言葉に我々はネガティブなイメージを抱くが、
実はそれ自体に良いも悪いもない。
 
ただ、極端に振れることによってバランスを崩し、
倒れないようにする注意は必要なのだろう。
 
恐怖があることで人は注意することができるし、身を守ることが出来るのだから。
 
 
それはさておき、「心」という「見えないモノ」によって
この「現実世界」あるいは「物理世界」が生み出されているということは注目に値する。
 
「見えないものは信じられない。」
 
そんな人は多いかもしれないが、それだと「自分の心の存在を信じない」
ということになるから、可笑しなことになる。
 
そもそも我々、人間は心、意識があるが、その正体すら未だに解明できていない。
 
我々の本体は体なのか?
心なのか?
それとも2つで一つなのか?
 
 

心があるとすれば、それはどこに在るのか。

 
それに対する答えは、科学やスピリチュアルが出してくれるのかもしれないが、
安易に外側の答えに飛びつくのも考えものだ。
 
なぜなら、科学もスピリチュアルも、宗教の教義も、
なにもかも全ては繰り返し修正されてきたからだ。
 
「これが答えです!」
 
などと言って学会は最新の言論を発表するが、
そんなものは権威が大衆をコントロールする為の餌でしかない。
 
外側から提示される「答えもどき」に振り回されているほど
我々は暇ではない。
 
外側から与えられる答えなどではなく、
 
「自分の心の奥底からそうだと思えること」
それこそが答えなのではないだろうか?
 
少なくとも、そうして生きられる人は
誰かに良いように操られたり搾取されたりすることはないだろう。
 
 
「賢く豊かに生きる」ということが、「哲学による現世利益」なのだとしたら
自分は堂々と自分の心の思うままに生きたいと思う。
 
 
ここで「賢く豊かに生きる」というキーフレーズが出たので、
現代で豊かさに紐つけられるお金についても触れようと思う。
 
 

お金は実態のない「幻」である。

 
お金は幻。そんなことは日本人の多くが心の奥底では分かっていることだ。
 
だけど、現実世界を生きるにはある程度のお金が必要だから、
日々の糧を得る為にお金を稼ぐ。仕事をする。
 
 
このお金というものは、銀行口座に印字されたただの数字だが、
この空虚なる数字(スコア)による支配は資本社会の特徴だと思う。
 
数字も言ってみれば幻であり、お金(不換紙幣)も幻である。
 
ただし、自分は紙幣が好きだ。紙幣はお金を実体化したものであり
見て触れることが出来るから印字された数字よりかは、まだ価値がある。
 
だけど、1万円札の原価は取るに足りないものである。
 
1万円札の価値は、人間社会での合意によってなりたっている。
つまりは心だ。
 
人々の心が1万円に価値を与えているのだ。
 
そう、またしても社会は心(集合意識)によって動かされているのだ。
 
 

そもそも、お金と心は似ている。

 
お金は実態がない見えないモノだけど、人々はその存在を認めている。
 
心も実態がない見えないモノだけど、人々がその存在を認めているように。
 
お金を象徴するアイコンが紙幣だとすれば、
心を象徴するアイコンは人間そのものなのだろう。
 
我々は人を目の前にしたら、それを「肉の塊」とは決して思わない。
それには心であり精神が宿っていることを知っている。
 
その「人の心」こそが、紙幣(お金)に価値を与えている。
 
そして「人の心」は見えない触れられない、実態のないものである。
 
そう考えると、世界や文明は人の心により発展してきた訳だから、
実態のない見えない心によって現実世界は生み出されていることになるのだ。
 
 
つまりは、人の心こそが、世界を紐解く鍵であり、
賢く豊かに生きる鍵でもあるのだ。
 
 

心を賢く運用するには、哲学が必要である。

 
心の取扱説明書があるとすれば、それは哲学ではないだろうか?
 
哲学とは知恵を愛するという語源から来ているが、
それは、
 
「自分なりの経験則を導き出すこと」
そして、
「経験則を人生にあてはめて賢く生きること」
と言っても良いかもしれない。
 
そもそも、万人に共通する答えなんてないのだ。
 
食事にしたって、Aさんに合う食事とBさんに合う食事は違う。
 
それに全ての人が別々の人生を生きている訳だから、
 
人生哲学はそれぞれが生きる中で見出し、適用し、
自分の人生を試行錯誤するべきなのだ。
 
 

恐怖心とお金が結びつき欲望は無限にエスカレートする運命にある。

 
虚なるもの、つまり「幻のように実態のない人の心」が現実世界を、人間文明を創って来た。
 
そして、資本社会とは、その「虚なる心」と「虚なるお金」による狂想劇のようなものだ。
 
ちなみに、虚だから悪ということではないし、実在していない訳ではない。
 
人間的視点では、「実と虚」があるとすれば、
 
 「実」は見て触れられるモノであり、
 「虚」は見えず触れられないモノであるに過ぎない。
 
人は得てして、「実なるモノ」を重要視しがちだ。
 
だけど実際には、「虚なるモノ」こそが現実世界を包み込んで、動かしているのではないだろうか?
 
たとえば、実なるモノである金(ゴールド)は有限である。
 
それに対して、虚なるモノ「お金」は無限に生み出すことが出来る。
 
たとえば、
1京円という数字は新型コロナウィルスによる各国が被害を受けて
中国に対して賠償を求める訴訟の金額だそうだ。
 
1京円は1兆円の1万倍であり、
1兆円=1,000,000,000,000円
1京円=10,000,000,000,000,000円
 
庶民にとってみれば、生涯見ることのない、無限とも言える数字だが、でも実際には無限ではないとも言える。
 
なぜなら、数字を印字すれば無限にお金は生み出せるが、印字するのは現実世界だからだ。
 
ではデータで無限を表現することは出来るだろうか?
コンピューターが延々と止むことなく数字を加算していけば、無限は表現できるのかもしれない。
 
数学者であれば、無限を数式で表現できるのかもしれない。
 
たとえば、「∞」のように。
 
しかし、仮にそれをしたとしても、その数式は無限という言葉を表すに過ぎず、
無限それじたいの事象を表現することにはならない。
 
「無限という言葉」を「アイコン」で表現するのと、
「無限という事象」を表現するのとでは全く意味が違う。
 
(2という数字は「りんご2つ」で表すことが出来るが、
 無限という数字は「∞」で表現することが出来ても、りんごで表現することは出来ない)
 
 
話を戻そう。
 
つまり、ここで言いたいことは「人の心」と「お金」は「まるで無限のように」見境なく、膨張する運命にあるということだ。
 
それは設計者達は、設計段階でわかり切っていたことであり、
それ故に資本社会は潰える運命にあったということだ。
 
 
つまり資本社会も、これまでのあらゆる文明も、人類の為の
社会実験だったのではないだろうか。
 
そしてそれら数多の文明を経験してきたからこそ、
たどり着ける文明があるのではないだろうか?
 
 
・・それについては後述するとして、
今は資本社会についてさらに切り込んでいく。
 
 

虚なる欲望が地球を蝕む

 
資本社会の問題とは、虚なるお金が地球を蝕むということだ。
 
たとえば、誰かが1京円のお金で地球上すべての水資源を買い占めたとする。
 
そうすると、その水資源はその人のモノになり、
水を飲みたい庶民はお金を払って買うようになる。
 
しかし、それを許してしまうと、1リットルの水は●●円となり、
虚なるお金によって水を飲み尽くすことも可能になるということだ。
 
お金は(事実上)無限であり、水は有限である。
 
有限は無限には敵わない。
 
やがて無限の欲望によって、地球資源は食い尽くされることになる。
 
 
確かに、現実的にそんなことは起こり得ないのかもしれない。
 
しかし、人の欲望とお金がセットになっている限り、
その恐怖から逃れる手段としてお金が使われる限りは、
 
地球資源(我々が生存に必要とする資源)はどんどんと
買い占められて、枯渇していくように思われる。
 
 
しかしながら、現実にそんなことにはならないのだろう。
 
 

現実的には、軍の介入が考えられる。

 
どんなに桁外れの金持ちが、お金のパワーを行使しても、
その力は空虚なる契約の上になりたっており、
殺されてしまえば終わりだ。
 
これは全ての契約や、社会の約束事にも言えることだが、
 
そんなものは暴力つまり、軍隊や警察などの力の前では
無力であるように思える。
 
力によって、約束事は幾らでもねじ曲げられるのだ。
 
秩序とは集合体による約束事によって成り立つ。
 
しかしその秩序を破壊する軍隊があれば、
古い秩序(約束事)を反故にし、取り消し、
新たな約束事で塗り替えることが出来てしまうのだ。
 
だから未だに各国が軍事力に力を入れているのは
そういう大人の事情があるのだろう。
 
つまり、
 
 

殺人や暴力というカードは、未だに最強なのかもしれない。

 
お金と自分の命、どちらが大事だろうか。
 
お金は命あってのもの。死んだら使えない。
 
だから当然、人は土壇場になったら、お金よりも命を選ぶはずだ。
 
個人の命 > お金
軍隊 > お金
軍隊 > 個人の命
 
軍隊 > 個人の命 > お金
 
という数式が成り立つかもしれない。
 
そう考えると、国家が途方もない財力を軍事に使うのもうなずける。
 
お金も約束事も秩序も、「殺人力」の前には紙切れに過ぎないのだ。
 
もし仮に一国が、地球上のすべての人間を瞬時に破壊できる「暴力装置」を手に入れたとしたら、
それは秩序も、約束も、契約も、なにもかもが単なる紙切れと化すことを意味する。
 
(たとえばデスノートのような・・)
 
破壊者は、古い秩序を破壊し、新たに自分にとって都合のよいパラダイス(楽園)を作り出すことが出来てしまう。
 
・・しかし、それはもはや、文明と言えるのだろうか?
 
力ある者がすべてを支配する世界。
 
それでは「独裁者による、独裁者の為の世界」となってしまう。
 
これでは、人間世界の多様性が失われてしまうし、何より、
人類全体の社会実験とはなり得なくなってしまう。
 
 

何故、第3次世界大戦は起きてないのか?

 
今後、世界大戦は起きるのか?
 
今それが抑止されているのは、
各国が軍事によって睨みを効かせているからだろう。
 
たとえば仮に、ある国(A国)が、原子力爆弾のようなものを世界中の主要都市に発射させたとしたらどうだろう?
 
各国の機能は停止し、A国は生き残る。
 
しかし、攻撃を仕掛け、生き残ったA国もまた、どこぞの国の原子力爆弾によって即座に報復を受けるだろう。
 
核による抑止とはこういうものだ。
 
つまり、こうして野蛮な人間社会は、殺人力という牽制のし合いによって
危ういバランスの上に成り立っているように見えるのだ。
 
このような野蛮な文明により、資本社会ならびに、人間社会は
知的で理性的な面(ツラ)で取り繕い「愛」だのなんだのと、のたまっているのだ。
 
 
現実的に考えて、今はまだ愛で地球を救うことは出来ない。
 
むしろ、愛ゆえに、人は戦い、憎しみあっている。
 
今はまだ、軍事力が地球を救いもし、破壊もする「諸刃の刃」であるのだ。
 
 

世界は、暴力による支配が未だに続いている。

 
では、そんな文明はどこに向かうのだろうか?
 
暴力ではない、何かべつのモノによって運営される社会は実現可能なのだろうか?
 
可能ではあると思う。
 
それは結局、人の心の在りようにかかっているように思える。
 
なぜ人は力によって他者を屈服させなくてはならないのか?
 
それは満たされていないからではないだろうか?
 
不足、不安、不満、があることによって人はそれらを払拭するために
力を行使する。
 
恐怖から逃れる為に、何かに駆り立てられて、何かを得ようとする。
 
しかし、もしも不足、不安、不満がなかったらどうだろうか?
 
 

すべての人が満たされていたら、戦い、競う必要はあるだろうか?

 
・毎日、美味い飯が食えて、
・好きなことで生きて、
・好きな異性や仲間に囲まれて生きる。
 
そんな世界に戦いが必要だろうか?
 
おそらくだが、ない。
 
もちろん、そんな夢物語が現実的に可能かどうかは置いといて、だ。
 
だけど、なんとなくだが世界の潮流は、
そっちの方に舵を切り始めているように感じる。
 
・AIによる管理社会
・ベーシックインカム
・バーチャル空間
 
これらなんかは正に「そういうことだよね」という気がしてくる。
 
バーチャル空間であれば、人は自らの欲望をほぼほぼ叶えることが出来るはずだ。
 
・誰にも迷惑をかけることなく。
・地球に負荷をかけることなく。
 
だから今後、
 
 

リアル世界とバーチャル世界が見事に逆転する

 
それはシンギュラリティ(特異点)と言っても良いかもしれない。
 
今はまだ人々はリアル世界(物理世界)に臨場感を持って生きている。
 
でも、ゲーム世代や、若い世代は、すでにバーチャル空間の方に、より魅力を感じ始めているのではないだろうか?
 
彼らにとってみれば、リアルな現実世界は古臭く、ツマラナイものであるように伺える。
 
思い通りにならない、理不尽な現実世界に、魅力がないとしても無理からぬことだ。
 
現実を直視して真面目に生きることなんかよりも、
スマホの画面を覗いていた方が即座に満たされてしまうからだ。
 
バーチャルの中なら、人は自分に最適化された世界を構築することが出来る。
 
しかもそのコストは驚くほど安い。
データをいじるだけなのだから。
 
・憧れの異性に似たキャラとイチャイチャすることも
・得意なゲームで勝ち誇ることも
・クローズドなコミュニティの中で優越感にひたることも
 
すべてバーチャルワールドなら可能だ。
 
だから、この流れは加速度的になっていき、
最早ノンストップであろうことは容易に想像がつく。
 
 

人々の欲望はバーチャル世界で消費されるようになる

 
そうすれば、人々は最早、不足、不満、不安に怯えることを忘れ、
母なるデータの揺り籠の中で、優しく飼い慣らされていくだろう。
 
・気持ち良い
・心地よい
・思い通り
 
バーチャルにそんな「ユートピア」が広がっているのだとしたら、
それにわざわざ抗える人はどれほどいるのだろうか?
 
我々は「リアルネイティブ」だとすると、
これからの子供達は「スマホネイティブ」であり、
さらには「バーチャルネイティブ」になるのだとしたら?
 
生まれた時にある環境に人は馴染むように、
バーチャル世界だってすんなりと受け入れられていくはずだ。
 
だけれど昨今、陰謀論者、だけではないが、「管理社会」の到来を憂う人が増えている。
 
しかし、
 
 

管理社会は本当に悪なのだろうか?

 
自分は、管理社会によってようやく人は暴力と競争の世界から
開放されるのではないかとすら思う。
 
それが最適解かどうかはさておき、今の段階においては、
見事なまでに考え抜かれた社会設計であるとすら感じる。
 
むしろ、そうしなくては第三次世界大戦で地球が滅ぶ様なことになりかねない。
 
「人類が飼い慣らされる」
 
と言うが、では今はそうではないのか?
 
スマホが出れば皆んなが使うではないか。
 
結局、そうやって人類は社会制度に流されて生きることしか出来ない。
 
もしくは今も一部の人間がやっているように、
社会を利用するように生きることも可能なのかもしれないが。
 
 
いずれにしても、多数の人類はバーチャル空間に臨場感を持つ様になる。
 
そして、欲望も願望も、データの世界で思うがままに叶えることが出来る様になる。
 
それは、これまでには少数の選ばれし人類だけが享受してきたものだ。
 
 
資本社会では、成功者が。
 
昔なら貴族などだけが、現実の恩恵を受けて生きられた。
 
人は、「自分も成り上がりたい、成功したい」と願って、それに向けて走り、人生を費やし、それを叶える為に戦ってきた。
 
でも、もうそんなことをしなくても欲望を叶えられる世界が出来上がりつつある。
 
 

まさに、映画マトリックスの様な世界の到来だ。

 
映画マトリックスでは、人類が人工培養装置に入れられて
バーチャル空間で暮らしている。
 
人間の放出する電気が、機械達の電力源となり、
機械は人間を世話し(もしくは栽培し)、
その見返りにバーチャル空間での夢を提供する。
 
これはもちろん映画の話である。
 
しかしながら、
人類がバーチャル空間へとメインステージを移すのは
最早、時間の問題のように思えてくる。
 
ちなみにこれを書いている2021年の時点では、
マトリックス4作目に当たる、
 
「マトリックス:レザレクションズ」
が12月に公開予定となっている。
 

レザレクションズの予告動画で分かることとして、
主人公ネオ達が再びマトリックス(バーチャル世界)に囚われている。
 
1〜3作を通して、マトリックスから抜け出し「覚醒」していた彼らは、
何故また再びマトリックスに囚われているのだろうか?
 
私見を述べるとすれば、これは「皮肉」のようにも感じられる。
 
つまり、現実においても、「私は覚醒している」「目覚めています」
「悟りました」という人たちが一定数、存在する。
 
実際に、彼らが「そうなのかどうか」はさておき・・
 
 

「覚醒」「目覚め」「悟り」とは単なる言葉遊びではないか?

 
ということに尽きる。
 
無限を表現するのに、「∞」というシンボルを使うが、
このシンボルが無限という事象を表現している訳ではない。
 
それと同じ様に、「覚醒」「目覚め」「悟り」なんかの言葉も
単なるシンボル/アイコンであって、その事象を表現できていないのだ。
 
単に、それらしく、言った者勝ち。なのだ。
 
さらに言うと、
マトリックスから抜け出した、さらにその先にマトリックス(バーチャル世界)が用意されていたとしても何ら不思議は無いということになる。
 
マトリックスは何十にも階層となって世界を包み込んでいるとしたら?
 
我々はすでにそれを理解しはじめているはずだ。
 
二次元や映画などの創作物は
クリエイターという神が創作し、
 
そのクリエイターという人間は、
さらなるクリエイターの創作物である。
 
人間のクリエイターを我々は「神」と呼んで来たではないか。
 
つまり、マトリックスから目覚めるということは
また別の、マトリックスで目覚めるということに過ぎないのだ。
 
そこに良いも悪いもない気がする。
 
単に趣味嗜好の違いであり、
自分はどこの世界に臨場感を持って生きたいのかである。
 
つまり、ここから分かるのは・・
 
 

現実を選択する未来がやって来る。

 
ということだ。
 
これまでは、現実は1つだけだった。
 
それは現実空間として、我々が長年慣れ親しんで来た、
この【物理世界】である。
 
これまでに人類は、物理世界に否が応でも適応して生きる必要があった。
 
しかし、これからの未来には、
自分にとっての現実を選択できるようになるはずだ。
 
それが、人間の数だけ存在するようになるであろう、
バーチャル空間である。
 
誰かが作ったバーチャル空間に浸るのも良いし、
自分で作っても良いはずだ。
 
その中では、もはや物理世界の煩わしい制約が一切存在しない。
 
好きなアバターを選び、顔を選び、髪型をその日の気分で変え、
服装だって選びたい放題だ。
 
「でも所詮バーチャルですよね笑」
 
と思うかもしれないが、
 
「現実とは脳の電気信号に過ぎない」
というモーフィアスの言葉を借りれば、
 
「そもそも、現実とは何なのか?」
という話にもなってくる。
 
我々は、「夢の中で夢と気づかない」様に、
現実の中でそれがバーチャル(作り物)であるなどと
一々気づかないのだとしたら?
 
それは現実なのか?
 
またはそうでないのかは、
一体誰がどの基準で決めるのだろうか?
 
今の自分たちが現実だと思っているこの現実世界だって
実は長い夢を見ているだけなのかもしれないではないか。
 
そして死とは、その長い夢から目覚める「リセットボタン」なのかもしれない。
 
我々が「あの世」と呼ぶ世界こそが「現実」であり、
「この世」こそが夢の世界なのかもしれない。
 
 

バーチャル化の先に人類はどこへ向かうのか?

 
こうして人類は「データという新しい宗教」の信仰者となり、
 
母なるデータの揺り籠の中で管理されるようになるのだ。
 
これまでにも我々には、
「人間としての母」
「地球という母」
がいたが、
 
「新たな母はAI」
なのかもしれない。
 
バーチャル世界に突入していく人類は
一体どこへ向かうのだろうか?
 
もはや、「人間という種から、かけ離れた存在」となっていくとしても
不思議では無い気がしてくる。
 
ヒトラーが予言したように、
「人類は人類ではない何かに進化しているだろう」
という言葉通りだ。
 
あの陰謀論界隈では有名な「ジョージアガイドストーン」には
【人類5億人計画】なるものが刻まれているそうだが、
 
 
それはつまり、
人類という種としてカウントできるのは将来5億人程度しかいなくなり、
 
それ以外はバーチャル世界をメインとして生きる、
旧来の人類とは別の種としてカウントされているからではないだろうか?
 
もしくは文字通り、人口削減によって、地球人類は5億人程度まで
減っているのかもしれないが・・
 
いずれにしても今は大いなる転換期であることは間違いなさそうである。
 
 

我々は「ちつ」から生まれて「つち」に還れるのか?

 
この章を締めくくるに当たり、冒頭での一節を再び使う。
 
我々、人類は「ちつ」から生まれて来たが、
将来は「デザイナーズ・ベイビー」として
試験管で生まれる可能性だってあるのだ。
 
それはきっと、もはや「人類」ではなく、何か別の生命体の種として
カウント(分類)されるのではないだろうか?
 
今や、魚や肉がどんどんと人工的に養殖されるように、
 
今後は、養殖された人間がどんどん増えるとしても、
なんら不思議ではない。
 
「天然物」という純粋な意味での人類は失われ、
 
「養殖」という状態で、生まれながらに(というか、生まれる以前から)
データ管理された人間の子供が生まれる様になる。
 
 
DNA編集も行うことが出来る様になれば、
その時代において優秀な人材を生み出すために
躊躇なくそれを行うような「トレンド」も起こるであろう。
 
既に合理的な考えをする中国などでは、
この分野では先端を行っていると聞く。
 
 
このように、
「当たり前」「常識」といったものが一切通用しなくなるような
時代観の中で、我々にはかつてないほどに求められているものがある。
 
哲学だ。
 
つまり、知恵を愛する心が。
 
「賢く豊かに、自分らしく生きる」ということが。
 
外側の答えや、情報に踊らされることなく、
自分にとっての最適解を選び取って行くことが。
 
 
我々、人類に与えられた知能は半端なものではあるが、
 
すくなくとも知能の使い先としては、
これ以上ないものであるように思う。
 
「考えることを辞めるな。」
 
それが人類に与えられし使命なのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
フィロソフィア❷へ続く・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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