セナです。
今回は突然に「愛」について哲学してみたいと思います。
愛とはなんなのか?
人間にとっては大きなテーマだと思います。
とは言え、「愛」という言葉は、我々日本人にとっては、比較的、新しい概念です。
現代の「愛」という概念は、明治時代に西洋から入ってきたものです。
それ以前には、愛という言葉や概念は一般的ではなく、愛とは「悲哀」などダークなニュアンスを含む言葉だったそうですよ。(男女間の場合は、「恋しい」が一般的でした)
・・でも、それはさておきです。
愛という言葉がこれだけ流行歌で歌われ、ラブソングで、ドラマで、愛が濫用される世の中です。
・・愛とは何かを考えてみるのは非常に重要だと思うんですね
そもそも、愛という言葉は『非常に危険な側面もある』という認識をもって欲しいと思うのです。
その上で、自分なりの愛を追求し、表現していって欲しいと思います。
愛を自分なりに体現して生きられたら、それこそ幸せに生きられると思います。
それでは前置きはこれくらいにして本題に入ります。。
芸能人の愛と家族と憎しみと。(考えさせられる)
ちょっと前ですけど、テレビで、とある女性芸能人が離婚について話していました。
「旦那から、急に離婚したいと言い出して」
「浮気しない自信がないと言われて、、」
「私は家族の為にこんなに頑張ってたのに、ひどくないですか」
こんなことを言ってました。
確かに世間一般的に見れば、彼女が正しいっぽく見えます。
大衆は彼女の味方につくでしょう。
でも、思うのですが、「私は、あなたの為にこんなにやってあげているのに。」この言葉って非常にうざったいなと感じます。
純粋に、人ってやりたい事をやって生きるべきだと思うんですね。
無理をして、力んで生きるのは非常に苦しいです。
そしてその苦しい状態で、今の人生を成り立たせているなら、それは無理と苦労の上になりたつ訳ですから非常に脆いですよね。
(ちょっとした揺れが来たらたちまち崩れる「欠陥住宅」のようです。)
この彼女の場合は、心のどこかで
「やってあげている」とか、
「私は正しい」
「あなたはおかしい」
みたいな意識ってどこかにあったと思うんですよね。
そういうのって人は感じるから、嫌になって離れたくなるんだと思う。
(もちろんこれが全てではないと思いますよ。彼女が一方的に悪いとかそういう議論ではないです。)
でも「こんなにあなたの為にやってあげてるのに」とか、
「子供を愛しているから、勉強をさせないといけないの」
「あなたはこうするべき」
「あなたは、ここを直すべき」
「私はあなたを思って言ってるのに、なぜ言うことを聞かないの?」
こういう言葉って「愛」という言葉のオブラートに包んだ、暴力ですよ。
(正しさの暴力とも言う。最近だと、自粛警察とかね。)
・・本質的にやっていることは、「私が正しいのだから、あなたは言うことを聞きなさい」じゃないですか。
「自分は正しい、アナタは間違っている」と一方的にジャッジしています。
これは、あまりにも視野が狭いのです。
この世界は自分が思っているほど単純ではないし、世界には様々な人々がいて、人それぞれの正しさがあります。そこを善悪の二元論で、自分の正しさを通そうとすると、摩擦が起きるのです。
正しさを通すのが極まると、争いや戦争になるのですよね?
善悪は競争を生み出し、争いを生み出す思考だと思います。
だから、お互いに相手を尊重する。(自分にも正しさがあるし、相手にも正しさがある。これを理解する。)これが幸せに生きるベース(基本)だと思うのですね。
そしてここから本当の本題なのですが・・
「愛」という言葉は非常に偽善と欺瞞(ぎまん)に使われやすい
・・そんな言葉だと思う。
勿論「純粋な愛」もあるのだと思いますが、、それは非常に希少な気がしますね。
唯一、愛を体現しているとすれば、自然ですね。
太陽は誰のもとにも降り注ぐわけですが、これは無条件の愛です。
善人だろうが悪人だろうが分け隔てなく恵の光を注ぐわけですから。
また、自然界の色彩や造形を見ると、非常に美しいですよね。
なぜ空は青で、緑は緑なのか。
この世界のデザイナーは人間を楽しませる「愛」に溢れていたのではないか・・と感じざるを得ないですね。(これに限らず、自然から学ぶことは多いですね。)
一方で、人のいう「愛してる」という言葉はどうしても、薄っぺらく感じます(笑)
・愛と性欲を混同していたり、
・自分の思いを通す為に
・相手を動かす為に
・愛という言葉を使えば崇高に見える的な、、
そうやって「愛」を安っぽく「下心ありき」で使われる場合が非常に多い。
個人的に、愛について思うのは、この言葉の「扱いの難しさ」ですね。
自分の体感覚と愛という言葉が結びつきづらいのです。
それよりも、「胸がジーンとする」とか「涙がこみあげてくる」みたいなことはあります。
それは愛というよりも「感動」「感謝」という表現に近い。
そして、感動や感謝は体感覚を伴うから、分かりやすい。
愛は、体感覚としてあまり実感が湧きにくいのかもしれない・・。(自分は特に)
「この感覚は愛だ。」
みたいなのって、それはわかる時が来れば分かるのかもしれないけど、今はまだ愛という感覚が正直よく分かりません。
だから、自分は「愛」という言葉を安易に使いたくないと思っていて、
逆に「愛」とか、「あなたの為に」みたいな事を言う人は、十分気を付けた方がいいと思います。
親でも、家族でも、近しい人でも、、愛という言葉を盾にして、コントロールしようとしてきたら要注意です。
(ここまでよろしいでしょうか〜〜??)
では最後に、愛に関するアカデミックな話しもしますね。
愛の定義とは?(アインシュタインも分からない!?)
愛という言葉は、未だ定義されていない言葉だと言われています。
アインシュタインも愛は最大の謎だ!みたいな言葉を残しています。
最近、自分が「愛」についてフト感じたのは、愛は定義するべき言葉ではない。ということです。
なぜか?
人は誰しも、言葉にならない気持ちを感じることがあると思います。
勿論アナタもあると思います。
言葉にならない、暖かい、優しい気持ち。
それを人は言葉でなんと表現すれば良いか分からないから、その言葉にならない気持ちを、愛という言葉に託すのです。
つまり、愛とは、感じるものであって、定義するものではない、ということです。
愛を定義したら、それは冷凍食品のようなもので、味わいがなくなります。
言葉で縛って固めるとは、そういうことです。
定義した途端、愛という言葉はその温かみを失い、
愛という言葉が内包しえる、あらゆる可能性を排除してしまうことでしょう。
・・だから・・愛は曖昧(あいまい)なままで良いのです。
ちなみに・・愛という言葉に限らず、世の中には言葉が溢れていますが、言葉で表せる世界は全体のほんの一部です。
言葉で表せる世界は、1%以下でしょう。
それ以外の言葉にならない非言語的な感性、感覚の部分が非常に大きいのです。
つまり、愛とは理解するものではなく、感じるものだということです。
・・多分、分かりづらいと思いますが(笑)
でも、人間にとって「愛とは何か」を追求するのは一生物であると思いますので大いに”モヤモヤ”してみてください。
哲学することで、未知なる可能性が生まれてくるわけですからね。
そもそも。人間の思考はこういうところに使うべきだと思います。
それではまた!
PS:呪術廻戦、五條悟の言葉に学ぶこと。
最近、娘の影響で「呪術廻戦」を読んでるのですが、その中で最強の男、五條悟もこんなことを言っています、
「これは持論だけどね、愛ほど歪んだ呪いはないよ」
そう。なんかわかる気がしますよね。
正しいとか間違ってるとかは考えなくていいです。
持論って素晴らしいのです。
その人の人生経験に裏打ちされた言葉は、そこに言葉にならない言葉や思いが詰まっているから非常に奥深く聞こえます。
そして、感性のある人や、わかる人にはわかるのです。(言葉に秘められた奥深さが伝わる)
だから、言葉は誰が言うかが大事なんですね。
モテる人の言葉を、違う人が言っても、違うわけです(笑)
そこに、人生経験に基づいた、裏打ちされたものがなければ無意味。
魂のようなものがこもっていない言葉は空虚なのです。
愛も定義できない以上、誰が、どんなシチュエーションで、どう言うのか・・あらゆる非言語が物を言います。
というか、愛という言葉すら要らなくなるのですよね。
「バカ。」という言葉だって、思いを込めれば「愛の言葉」になるのですから。。
ということで、愛についてはまだあるのですが、長くなってきたのでつづきはまた別の記事でシェアしようと思います。
ではまた!
つづく・・。
セナ薫
コメント