コミュ障による男女関係の奥義とは・・シン・エヴァンゲリオン劇場版を見て

作品考察
こんにちは!

自称「コミュ障気味」なセナです。

(今回はエヴァの話から始めますが、ネタバレなしです。

 見てない人でも気づきの多い記事だと思います!)

 

それで先日エヴァンゲリオンが最後の劇場版を公開しましたので、早速・・ではないですが「Amzonプライム」で無料だったので見ました(笑)

全体的な感想としては、「キレイにまとめてくれてありがとう。」ですね。

 

思えば前作「劇場版Q」では話がまったく理解不能に陥りまして

「置いてけぼり感」

が半端なかったのですが、最後の最後で、一般視聴者にも受け入れられる内容に仕上げてくれて(寄せてくれて?)有り難かったです。

 

そもそもエヴァというアニメは、監督である庵野秀明さんの【オナニー作品】であるなんて揶揄されて来ましたが、エヴァをアート作品として捉えるならば、とことん庵野さんが突っ走ってくれても良かった。

 

でも最後の最後には、劇場版だけの単体で見ても気づきの多い作品として仕上がっていました。ということで前置きはここまでにして、気付いたことをシェアして行きますね。

 

人間は「寂しい」生き物である 〜人は寂しさを埋めるために世界をも滅ぼす〜

まず劇場版を見るまでもないですが、エヴァの登場人物は「寂しさ」を抱えています。

主人公の碇シンジ、アスカ、ミサト、

そして、劇場版では、シンジの父親である、碇ゲンドウが、その妻を失った悲しさが印象深く描かれていました。

 
で、エヴァの話って要は、
 
コミュ障(碇ゲンドウ)がずっと社会に馴染めなくて、
ようやく出会った心優しき女性ユイさんによって
生きる希望を抱いたと思ったら、

突然の事故で彼女を失い世界に絶望し、

「こんな世界消えてしまえ!」と怒り心頭して
人類を絶滅させる「人類補完計画」を打ち出した・・
 

ということですよね。
 
人類補完計画とは、

人は、それぞれ個体として分離して生きているから寂しく、
恐ろしく、永遠に分かり合えない。だったら分離をやめて、みんな魂に戻って一つになってしまえば良くね?
ということです。(生命体の個々の魂は、大きな魂から分かれて生まれてくるという、神道などで言われる「分け御霊」の概念ですね)
 
だから、「シン・エヴァ劇場版」の中での対立軸とは、
 
Aチーム:残酷な世界でそれでも個々として生きる人類
(人類への希望)
 vs
Bチーム:こんな残酷な世界なんて壊して一つ(大きな魂)に戻ろう
(人類への絶望)
という構図になっています。
 
そして、どちらにしても、人は生きている以上「寂しい」「他人が怖い」のだ・・ということを自覚しながら生きているということです。
 
現実を生きる我々にとっても重要となるのですが、、ここでのポイントは、

【人間なんて皆んな寂しいんだよね。】
 (人間とは寂しい生き物である)ということです。
 
その根本には、自分自身への不信感があります。
人間は中途半端に脳味噌が進化しているせいで、
 
・感情やら
・知能によって
 
「自分には生きている価値があるのか?」
「自分は愛される価値があるのか?」

という絶望的な問いを突きつけられて生きているのだと思います。

動物はおそらくですが、そんなことを考えて生きていません。虫も植物もそうでしょう。

 
先日テレビを見ていたら、中東で【自爆テロ】が起こりました。自爆テロが出来るのも人間だけでしょう。
 
「この現実世界よりも、もっと良い世界に行きたい」

それを信じて自らの死もいとわず行動するというのは、ある意味で「知能の証明」だと思います。

 
だから、そういう意味では人間は、自らの脳味噌に振り回されている哀れな存在であるように思えてしまいますね。
 
では以上を踏まえてですが、、現実世界を生きる我々にとって大事な気づきがあります。
 
 

人は無償の愛を求め続ける(母親のような愛情)

多くの人にとって、【母親の愛】は絶対的であり、自らの存在価値を証明する最初の手立てです。
 
しかし、エヴァでもそうだし、現実世界においても、母親の愛情を知らずに、愛情欲求不足で生きている人は少なくありません。

逆に、母親がいたという人であっても、自分が愛情を受けてこなかったと感じていれば、それでも「愛情欲求不足」になり得ます。

そして、母親の愛を受けて育った人であっても、結局は「母親のような無償の愛」を求めて生きている人が多いのです。

だから、要するに人類はみな「母親の愛情に飢えている」ということが言えます。

(これは数千年かけて地球全体として父性重視(男性性社会)で運営されてきた結果なのかもしれませんね)

 
それでですね、一言で「愛」と言ってもわからんと思うので・・具体的に言うと「母親のような無償の愛」っていうのは、
 
【自分の存在を丸ごと愛してくれること】
(丸ごと受け入れてくれること)
ですね。
 
たとえば、母親の愛の象徴であるこんなキーフレーズがあります。
「ただ元気に生きてくれてさえいれば良い。」
「あなたなら出来るって信じてるよ。」
「ずっと応援してるからね。」
「たとえ世界中が敵になっても、私だけはアナタの味方だよ。」
上記は、パッと思いついた愛情深い母親が言いそうなセリフです。
・・・
・・・
つまり、もうお気づきでしょうが・・・人はそういう母親のような言葉に飢えているんですね。

だから、こういう言葉をさらっと言えてしまう人はモテるし、求められる。

 
我々も、本当に母親のようにはなれないまでも、
まるで相手に対して母親のように接することが出来れば、
それだけで求められてしまうことでしょうね。
 
悪いことに使わないでくださいね?(笑)
さて、、ここまではテクニック的な話です。
 
「セリフや言葉」は何を言うかよりも、どういう思いで伝えるかの方が重要です。

ただセリフを発している大根役者と、思いを込めて言葉を発する役者とでは、雲泥の差がありますよね。

なので、ここからは「母親の愛」の背景にある「思想/マインド」について考察していきたいと思います。

 
 
 

現実で何を成すかは、アナタの価値とカンケーがない?!

人は、人から社会的基準を通して値踏みされます。

・何をやっているのか?
・職業は?
・何歳なの?
・学歴は?

そういう社会的な定規をもってこられて、日々、己の価値を査定されてしまう訳ですよね。

・どんな服装しているのか?
・どんな持ち物を持っているのか?

「他人を値踏みするような視線」は人間特有だと思います。

 
だから、こういう人間社会だからこそ、
 
「自分に価値を付け足したい」
「スキルアップしたい」
「ワンランク上に行きたい」
「もっと成長したい」
 
・・などとほざくのです(笑)
 
エヴァのアスカで言えば、
「エヴァに乗っている私には揺るぎない価値がある」
信じることで救われるのです。
でも、その安心感や価値は「儚く脆い」ものです。

なぜなら、それは今の社会が一時的に規程しているに過ぎないからです。

(お金だって、価値があると保証している国の信用で成り立っていますがその信用が崩れればお金の価値も崩れるように・・)

 
たとえば最近、噂されている「グレートリセット」つまり資本社会のリセットがありますが、
 
資本社会という前提が崩れれば、
今の我々が意味があると思っていることや、
良いと思っていることの殆どの価値が崩れ去ります。
でも、どんなに時代や、外側が変わっても、変わらない価値があります。

それが「母親の愛」です。

 
人は得てして社会的な成功を求めますが、それは「自分に価値があると証明するため」です。

そしてそんな自分には「愛される価値があると思いたいため」です。

 
でも、どんなに成功しようがしまいが、愛情深い母親であれば、アナタが成功しようがしまいがどーだって良いことです。

「あなたが元気に生きていることが嬉しい」

そう言ってくれることでしょう。

 
では本当の価値とはなんなのか?

それは、一時的に社会で規程されている価値(相対的価値)などではなく、絶対的価値である「アナタ自身の存在」の前ではどーだって良いことなのです。

(トップ層が土地や水などの地球資源を買うのは、お金の価値は相対的であるが、地球資源は絶対的価値があるからです。)

アナタの存在が(人知れず)誰かを救っているのです。
その実感がないならば、まだその誰かに出会っていないだけで。

(現実として我々は何世代も生き延びてきた人類の末裔であって、今を生きれていること自体が奇跡的なことであります=つまり優秀な遺伝子を持っていることを意味する。)

 
そして、ここまでが「母親の愛」の背景にある哲学(思想)なんですが、
このような思想から、
 
「あなたなら出来るって信じてるよ。」
「応援してるからね。」
「そのままの君が好きだよ。」
「自分の前では無理しなくて良いんだよ。」

という言葉に繋がってくる訳ですね。

社会的価値に惑わされずに、本質的価値を見抜くことは大切ですね。

 
 

最後に(コミュ障による“奥義的”な話)

今回最後なので、今の自分が思う「奥義」的な話を言います。

まず前提として、多くの人は自分に価値を付け足そうと必死に生きています。

でも、そんな雑閥とした競争社会の中では、

 
・「あなたは、そのままで素晴らしいんだよ」
 と認めてあげられる人はあまりいません。
 
・自分の我を通そうとする人ばかりで、
 先に相手の気持ちを受け入れようとする人がいません。
 
・「自分を愛して!」と“ねだる人”は多くても、
 母親のように寄り添ってくれる人がいません。
つまり、もうお分かりだと思いますが、現代人は【自意識過剰の病】だということですね(笑)

(「自分!自分!」が悪い訳ではありません。ただし、わがままは自分の生き方について我が儘であるべきです。もっと抽象度の高い部分で。)

 
ここまで読まれてきて、

「そうか母親のように接すれば良いのですね!」
と思われたら、それは半分正解です。
 
母親として、父親として、そのどちらも統合して使えたらもっと良いと思います。
(今回は父性については話しませんが)
 
それはさておき、一先ずの結論としては、今を丁寧に生きてみる。
ことと言えるかもしれません。
 
人の思考は自由にどんどんと遠くを見ようとしますし、まだ見ぬ理想を叶えようともがきます。

・今ここではないどこか
・まだ手に入れぬ何か
・理想の楽園・・

ですが、そうやって遠くを見るあまりに、今を生きるという丁寧さが失われているのではないか?

 
とフト感じるのです。
 
あえて今を見つめてみるのも大事なのでしょう。

 
・家族とちゃんと話しているか?
・異性に感謝を伝えているか?
・自分の感じることを拾ってあげているか?
得てして「無い物ねだり」するのは、簡単です。

でも、「自分には何もない!ない!」と言って、

現状に感謝することを忘れて生きていたら

次の展開はいつまで経ってもやってこないのです。
 
今を生きる。
という言葉がありますが、
今を丁寧に生きられる人こそが、
次なる人生のステージへといけるんだと思います。
 
 
それでは最後までありがとうございました!
 
 
セナ薫
 
 

PS

誤解しないで欲しいですが、こんな話をしておきながら、
自分は人と関わるのが得意ではありません。
 
どちらかと言うと、「コミュ障ぎみ」ですから、碇ゲンドウの気持ちも分からなくないです(笑)
 
 
でも自分は「コミュ障」が悪いとも思っていないのです。

人と無駄に関わらなければ、それだけ本質的な必要な人と出会いやすい。

という持論があるからです。

 
 
社会に適応するようなテクニックも必要ないと思っています。

社会に適応すれば、それだけ自分の素の魅力やパワーが薄れるからです。
 
そもそも自分というものを研ぎ澄ませて生きない限り、いつまでたっても「自分らしい人生はやってこない」でしょう。
 
「自分ISM」が最強です。
 
 
 
 
 
 

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