近代日本における愛の虚偽 伊藤整 「男女の愛」は幻想である理由。

恋愛/人間関係
 (男女の愛は明治以降に流布された幻想(ファンタジー)である!?)

セナです。

今回は、特に「男女間の愛」について掘り下げていきます。

今の我々、現代人が信じ切っている「男女の愛」という“崇高”なものは、明治以降にインストールされています。

本来の日本人にとって、男女の愛などは存在せず、言うならばそれは、

「ほがらかなる、性をベースにした」、
「恋う、慕う、惚れる関係」

なのです。(日本人はリアリスト!(現実主義))

 
以前にも描いたのですが、明治前の日本と、明治以降の日本はまったく「価値観」が別物です。
 
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(こちらの記事も合わせて読んでもらうと「愛」や「性」に関する本質が理解しやすいです。)

特に、今ではほぼ誰も気付いていないけど、最も重要だと思うことは、明治以降に入ってきた「愛」の概念です。

今では当たり前のように、

 男女の結婚は愛を誓い合うものですが、
 それは元々日本にはない習慣であり、
 それこそ西洋のキリスト教思想です。

そもそも、、

 

男女の関係や結びつきを「愛」で語ることに無理があるし、それこそ今世紀最大のファンタジーだと思うのです。

「男女の愛」については昔から自分の中で「違和感」があったのですが、実は同じようなことを考えている知識人がいたんですね。

たとえば、今回ご紹介する、この本。

1953年に発表されたものですが、非常に良く本質を捉えています。

近代日本における愛の虚偽

(近代日本人の発送の諸形式(他四篇)伊藤整 著 昭和28年(1953)発表)

この本は「近代日本人の発想の諸形式」という短編集なのですが、その中に収められている、「近代日本における愛の虚偽」は非常に面白いです。

たとえば、東洋(日本)と西洋(キリスト教文化)の根本的な違いをこのように表しています。

西洋(キリスト教文化)の黄金律:「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい。」

 つまり、
「自分を愛するように、他者を愛せよ。」
と言うことですね。

東洋、日本(孔子):「己の欲せざる所を、人に施すことなかれ。」
 つまり、
「自分にして欲しくないことは、他人にもするなよ。」

・・この微妙な違いが分かりますかね?

 

自分は、孔子の言葉の方がシンプルに分かりやすいと思うんですね。

「自分にして欲しくないことは、他人にもするなよ。」
これだったら子供でもすぐに理解できます。

でも、「自分を愛するように、他者を愛せよ。」
↑これだとちょっと分かりづらいですよね。

・自分自身を愛してない人もいるよね?
・犯罪者や殺人者も、同じように愛せと?
・そもそも愛するってどういうこと?

という疑問が浮かんできます。

ここで、「近代日本における「愛」の虚偽」の著者、伊藤整はこのように説いています。

「『己の欲せざる所を、人に施すことなかれ』という言葉を、他者に対する東洋人の最も賢い触れ方であるように感ずる。
 
他者を自己のように愛することはできない。我らの成し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである、と。」(近代日本における「愛」の虚偽)
つまり、現実的に考えて、「他人を自分と同じように愛することなんて無理」と考えるのが東洋的(日本的)であると。

(たとえば、クラスメイトや同僚全員を、自分と同じように愛する(大事に思う)ことが出来るかどうか考えてみれば、すぐに「そりゃ不可能!」だと分かります。)

しかし、西洋のキリスト教では「他者を自分と同じように愛せ」と説くのですね。

 
 
「そのような、人間の成し得ないことを命令として強制するとき、人はその方向への努力と希望を持つだけで、常にそこから離れ落ち、不完全なもの、教えを守り得ないものとして脱落する。」
 
つまり、人間にとって不可能な「無償の愛」へ到達するというゴールは永遠に達せられず、失敗するたびに自己嫌悪し、神という絶対者から見て「不完全で罪深い人間」という「キリスト信者」が出来上がるのです。

これって実に巧妙ですよね〜。

 
 
人間としては不可能なことを前提としているキリスト教的な愛の考え方、それと関連している男女の愛の考え方・・相手を自己と同じように考えよ(愛せよ)、という考え方が、男と女の関係の中に置き直されている。

即ち結婚式で、汝らは愛し合え、と二人のものは言い渡される。即ち不可能の愛が、結婚の中にまで持ち込まれるのだ。

結婚相手を、自分と同じように愛する。・・これは一見可能なように思えます。

「自分を愛するように、妻(夫)を愛する。」

・・では、夫婦の愛とはなんでしょうか?

「生涯、アナタだけを愛することを誓います。」と言いますよね。

これはリアリスト風に言えば、
「生涯、アナタ以外とは性交渉を持ちません。」
という誓いです。

なら、それは百歩譲って良しとしても、「アナタだけを愛する」ことは「愛」の概念に矛盾するのではないかと思うのですね。

愛とは、「他人を自分と同じように愛すること」であって、敵だろうがなんだろうが皆平等に愛しなさいという教えです。

(「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」とキリストは教えましたよね。)

だから、男女間の結びつき(結婚)に対して「愛」という言葉を使うのは、そもそもが矛盾しているし、間違っていると思われるのです。

 
 
 

「我ら一般の日本人智識階級は、不可能な愛というものを信じていない…」

 
「男と女との執着を、宗教の中に設けられた愛という言葉で規程し、それと同質のものと見なそうとする傾向は、ヨーロッパ系文化の中の目立った特色である。」
 
「明治以来、我々が取り入れた西洋文学の恋愛の思想は、(中略)疑うべからず最も合理的で道徳的な人類の秩序の考え方として受け入れている。」
 
「我ら一般の日本人智識階級は、不可能な愛というものを信じていない…」
 
「他者を自己と同一視しようと言うような、あり得ないことへの努力の中には虚偽(きょぎ、うそ)を見出すのだ。」
つまり、現代の日本人は、もはや疑うこともなく、男女の愛を信じ切っていますが、それを疑ってみるべき時期に差し掛かっています、と。

これまでに、あらゆるメディア、映画、ドラマ、漫画、などによって「男女の愛」がまるで現実であるかのように描かれて来たけど。・・現実は違う。

男女の関係は、本当はもっと泥臭いものであって、「結婚=ゴールではない」し、結婚とは社会をスムーズかつ有利に“サバイブ”する為の生存戦略です。

 
「我々は憐み、同情、手控え、“ためらい”などを他者に対して抱くが、しかし真実の愛を抱くことは不可能だと考え、抱く努力もしないのだ。」
だから、「愛」というよく分からない言葉で男女の関係を考えるよりも、日本人はもっと実践可能で、かつ現実的な相互メリットで考えてみるべきなんですね。

たとえば、男性にとっての彼女とは、「タダでセックスさせてくれる相手」であったり、「将来、自分の子供を産んでくれるかもしれない相手」または、「社会生活をサポートしてくれる人」。

一方、女性にとっての彼氏とは、「安心してセックスを許せる相手」であり、「将来、私を“終身雇用”してくれるかもしれない、雇い主候補」。

・・このように言うと、あまりに冷酷(ドライ)過ぎるかもしれないけど(笑)

でもだからと言って、男女の間に「愛」で語られるような甘美な感情、感覚がまったく無いとは言わないですよ。

しかし、本来それは「愛」という言葉ではなく、「恋う、慕う、惚れる」という言葉が適切であり、正確ではないかと思うのです。

 
 
 

男女の関係、それは「惚れること」であり、「恋すること」、「慕うこと」である。しかし愛ではない。

 
「だから男女の間の接触を理想的なものたらしめんとするとき、ヨーロッパ系の愛という言葉を使うのは、我々には、“ためらわれる”のである。

それは「惚れること」であり、「恋すること」、「慕うこと」である。しかし愛ではない。性という最も主我的(しゅがてき=自己中心的)なものをも、他者への愛というものに純化させようとする心的努力の習慣がないのだ。」


元々の日本人は男女の結びつきを「性ありき」で考えている(明治以前)
それは「ふしだら」とか「下劣」でもなんでもなくて、「それが人間としての自然」だからですよね。

 愛=崇高?

 性=下劣?

反射的にそう考えてしまうこと自体、我々がいかに洗脳された存在であるかを物語っています。

(性の価値観も明治以降に相当歪んでいる。詳しくはこちらの記事をどうぞ)

 
「逝きし世の面影」日本人の性と裸の価値観は現代とまったく違うものだった!?
瀬名です! 今からおよそ150年前の日本は明治時代でしたが、 その頃の日本の価値観や常識は、 我々現代日本人のものとは相当違ったようです。 「逝きし世の面影」という本では、当時の日本を訪れた「外国人の日本に関する...
愛の定義「これは持論だけどね、愛ほど歪んだ呪いはないよ」呪術廻戦、五條悟の言葉
セナです。 今回は突然に「愛」について哲学してみたいと思います。 愛とはなんなのか? 人間にとっては大きなテーマだと思います。   とは言え、「愛」という言葉は、我々日本人にとっては、比較的、新しい概念です。 ...

(こちらの記事も合わせて読んでもらうと「愛」や「性」に関する本質が理解しやすいです。)

 
 
「明治初年以来、「愛」という翻訳言葉を輸入し、それによって男女の間の恋を描き、説明し、証明しようとしたことが、どのような無理、空転、虚偽をもたらしたかは、私が最大限に譲歩しても疑うことができない。即ち、人類愛、ヒューマニズムという言葉も同類である。」
現代のゴシップ記事じゃないけど、もう誰の目から見ても明らかに、「男女の愛」という幻想(ファンタジー)がいかに多くの人を絶望させて来たかということが分かるはずです。

だったら元から男女の愛なんて言わないで、

「男女は惚れ合う、性によって結ばれる“ほがらか”な関係ですよ。」

と言った方がよっぽど良いのです。

「生涯、アナタ意外とセックスしないことを誓います!」

なんて絵空事など誓わせないで、そこはグレー(あいまい)にしておくべきなんですよ。

「誓いを破ったでしょ!離婚よ!」

という思考自体が人間関係を契約で縛ることの不条理性を表しています。

人と人の関係は「白黒はっきり」ではなく、お互いの「歩み寄り、許しあい」が必要なのですよね。

 
 
 

現代人は、自然にある「性を否定」し、「愛」というファンタジーを求めて永遠にさまよう・・

 
「多分、愛という言葉は、我々(日本人)には、同情、憐み、遠慮、気づかい、というもの、最上の場合で慈悲というようなものとしてしか実感されていないのだ。」
その通りで、日本人に限らずとも、人は「愛とはなんぞや?」と思いつつも、なんとなく周りの空気に飲まれて「君を愛してる」(だからヤらせてくれ!)と今日も“のたまって”いる存在なのですね。。

しかし、男性ばかりを責めることはできません!

なぜなら女性も同じように「男女の純粋な愛による結合」を信じ切っているからです。

(それがいかにファンタジーであるかを知っている女性もいるかもしれないが、それは自分の経験を通して会得していくので、そういう女性は必ずしも多くはない。)

だから、男も女も「愛」という言葉に惑わされて「性衝動を否定し」「いや、これは愛なんだ。性欲じゃないんだ。」と言い聞かせ、互いに「幻想チックなラブゲーム」を今日も繰り広げている訳です。。

(メディアも、「性を否定し、純愛を賛美する創作物」で溢れている。)

しかし、それ自体が最大の虚偽であることを、ほとんどの人が気付いていないのです。

いや、愛は幻想と気付きつつも、愛という言葉で牽制し合い、縛りあって、自分の利を得ようとするのが、現代の恋愛ゲームの本質なのかもしれませんが・・。

 
 
 
「ヨーロッパ思想の最大の虚偽(は)「愛」という言葉による男女の結合においてである。(中略)我々は愛という言葉を優しい甘美なものとしてその関係に使う場合にも、我々は「恋愛」として限定する。」
いつのまにか、我々は「愛」を最上のものと考えているし、
そして、「恋や恋愛」「性」を蔑(さげすんで)いますよね。

でも、それは明治以降の文化であって、元々の日本人の思想ではありません。

にもかかわらず、あらゆるメディア洗脳を受けて、誰一人として、まともに男女の愛に疑いを挟むこともしないのですね。

「不倫? はい、悪いことした! はい、皆んなで叩きましょう!」

こういう原始的なことを今だにやっているのを見る度に、ウンザリしませんかね(笑)

そもそもが、他人や外野が口出したり、ジャッジすることじゃなく、当人同士がどうするかの問題ですからね。

 
 
 
「男女の結びつきを翻訳語の「愛」で考える習慣が日本に智識階級の間に出来てから、いかに多くの女性が、その為に絶望を感じなければならなかっただろう?」

「(それは)毎日の新聞の身上相談を見るだけでも足りる。「私の方で愛しているのに私を棄てた」とか、「私を愛さなくなったのは彼が悪い」などという考え方でそれらは書かれている。

実質上の性の束縛の強制を愛という言葉で現代の男女は考えているのだ。

愛してなどいるのではなく、恋し、慕い、執着し、強制し、束縛し合い、やがて飽き、逃走しているだけなのである。

ちなみに自分は、誰かを「一途に思うこと」を否定する訳では無いのですね。

ただ、一途とは、裏返せば、「世間知らず」であり、「女性を知らない」、「井の中の蛙」と言い換えることもできる訳です。

だから、「一途な人=愛のある人」という風潮も疑問なんですね。

一途というのは「一種の恋愛戦略」であって、「僕は浮気しない確率が高いから、恋人になったら安心ですよ」と暗にプレゼンしている訳です。

なので、「わたし、一途な人が好きなの。」と真顔で言う女性は、相当に「厄介」、「束縛心が強そう」だな、と思う自分は、・・相当にひねくれているのかもしれないですね。

話を戻すけど、上にあるように、現代においては「愛とは、男女を束縛し合う、呪い」のようなものになっていると。。

「愛=契約」であり、ここで言う契約とは、「私意外とセックスしちゃダメよ」「破ったら離婚(別れるよ)」という脅し文句と変わらない気がするんですね。

このように男女は今日も互いに、恋し、慕い、執着し、強制し、束縛し合うラブゲームに興じているのです。

「きっとこの人なら、一生、“自分だけ”を愛してくれるはず。」

という「秘めた期待」と「非常に高いハードル」を抱えながら。。

・・最初から「男女の愛なんて言葉を知らなければ、どんなに良かったことだろうか」と思わざるを得ませんね。

もっと、ほがらかで、あいまいで、ゆるかった明治以前の日本人は幸せだったのではないかと思えてなりません。

明治から150年後の現代。

現代人は、永遠に到達し得ない、「男女の愛」を求めて彷徨っていると思うと、非常に考えさせられます。

・・では長々と読んでいただき、有難うございました。

 
セナ薫
 
 
 
 
 
 
 
 

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